自分語で能力開発

自分語研究家Miki執筆用ブログ

できるとできないの境界線

 前項では世の中にある物事の全ては、コインの表と裏があるように、1つの片側のことだけが全てではないということに触れました。何か能力を開発し、目標を達成しようとした時に、表と裏の両方の世界を感じることはとても大切で、絶対に欠かすことができません。片側の世界だけを見ていては、望んだ結果を手に入れることはできないと考えています。なぜ自分の見ている、感じている世界だけを信じて努力するだけでは思うような結果が得られないのでしょうか。

 

 何か新しいことを始めようとした時、人はどうしてもすぐに結果を求めてしまいます。確かに、何かを始めたらすぐに何かしらの効果や結果を感じたいし、実感があるからモチベーションも上がりますよね。ですので、テレビ番組やCM、ネット広告でもそういった即効性を売りにしているものばかりです。

 

 例えば、ダイエット特集などの「◯◯を食べただけで、−◯kg.」「◯週間でー◯ kg!」といった内容のものや「毎日〇〇を食べるだけ△△の症状が改善!」という健康番組も同様です。でも、ダイエットや健康情報のテレビを見て、明日から頑張るぞ!と思っても、次の日にはコンビニや百貨店の商品、そして旅行や食べ歩きなどのグルメ番組が放送されています。そして、紹介されている食べ物たちは、ダイエットや健康志向には不向きとされる食べ物ばかり。それらを「食べたーい!」と人気モデルたちに言わせている。そして、たまにはいいかと…食べ終わったであろう頃に、ぽっちゃりした芸能人が出てきてまたダイエットを始めます。

  

 つまり、全体をさらっと大雑把に見てた場合、ただのダイエットや健康情報とグルメ番組なだけなのですが、情報を発信する側は「痩せたい。でも食べたい。」という相反する2つの欲に揺さぶりをかけていることがわかります。そして、受け取る側もその相反する欲を刺激され、振り回されて、「痩せたい。でも食べたい。」という催眠状態になっているのではないかと考えます。

 

 食の情報に限らず、全ての情報においても同じことが言えます。片方で良いとされていることを、もう片方では悪いと発信されています。ということは、自分にとって良い方法と悪い方法を吟味し、選ぶようにしたらいいのでしょうか。しかし、同じ情報を同じ人が受け取っても、受け取る側の状況や気分によってその情報が良いか悪いかという判断基準が変わります。ということは、情報も自分の見ている世界は、平面でいう2面の表と裏だけではない複雑な表と裏があるのではないかと考えます。

 

 例えば、目の前に1枚のTシャツがあったとします。洗濯表示のタグが付いている方が裏側で、タグが付いていない方が表側だと考えるのが一般的かもしれません。しかし、襟口が広く、下に下がっている方が胸側だとしたら、胸側が前側で表側、その反対の後ろ側が裏側と考えることもできます。でも、胸側と思われた方が実は背中側にして着るデザインだとしたら表と裏は逆になるかもしれないし、リバーシブルのTシャツだったとしたら、表と裏は持ち主の気分や好みによって変わるでしょう。さらに、それらは床に置いたり、壁にかけた平面の状態の表裏なだけであって、Tシャツを着る時のように、Tシャツの内側に手を入れて広げてみると、それこそ表と裏の見え方も変わってきて、表も裏や前や後ろなどの表現の仕方も人それぞれになるということになります。

 

 つまり、リバーシブルの表裏を決めるのは持ち主の好みでや気分で決まるように、情報などの物事の好き嫌いも良し悪しも、受け取った人の都合や好みでいくらでも解釈が変化していくものだということです。そしてその受け取られ、解釈された情報は、情報を発信した人からしたら、意図したこととは全く違うものになっている可能性が高いのです。ということは、発信された情報の意図は発信された時点で受け取った側のものとなります。そしてその解釈したことが情報を受け取った人の思考を作る一部となり、、やがてそれが思考となり、さらに思い込みとなり、その人の世界を作るものだと考えます。

 

 「自分の当たり前」=「自分の思い込み」=「自分の世界」だとすれば、人は皆、思い込みだけで生きているということなのです。そして、その思い込んでいる自分の世界こそが、今の自分の能力であると考えることができます。つまり、能力を「できる」「できない」で考えたとしたら、「できる」も「できない」も自分の思い込みであるということなのではないでしょうか。

 

 誰でも自分ができることに関してはあまり深く考えないと思います。なぜならできることができるのが当たり前なので、それほど考える必要もないからです。では、できない場合はどうでしょう。なぜできないのかわからずに悩むこともありますが、できない理由はたくさん挙げられると思います。ということは、できない理由の数だけ、できないと強く思い込んでいるということなのではないでしょうか。

 

 では、「できる」「できない」があるということは「できる人」「できない人」がいるということです。では「できる」と「できない」の境目はどこにあるのでしょう。

 

 英語を例に考えてみます。まず「英語ができる人=英語が話せる人」ということにします。では、英語が話せる人とはどんな人でしょう。アメリカやイギリスなどの英語圏に住んでいる人、バイリンガル、帰国子女、英語が得意だった人といったところでしょうか。では、「英語ができない人=英語が話せない人」はどんな人でしょうか。日本人のように英語圏に住んでいない人、英語を使う機会がなかった人、英語が苦手な人ということにしてみます。

 

 でも、私の知り合いで、英語圏に住んでいても、英語を話せない、または話さない人も会ったことがあるし、海外の渡航経験はないけれど日本で英語を使って外国人相手にビジネスを立ち上げ、成功している人もいます。そして、英語が得意で資格もあるけれど英会話はできない人もいるし、資格は持っていないけれど英語が話せる人もいます。英語に苦手意識があって勉強する気がないと言いながらも、普段の会話に横文字がたくさん出てくる人も多いでしょう。ということは、最初に考えた英語ができる人のイメージと、実際にいる英語ができる人の実態が同じではないということがわかります。

 

 ということは、「できる」「できない」の境目も、自分が勝手に思い込んでいるだけで、実際の「できる」「できない」とは一致しないということがわかります。さらに、「できる」「できない」の基準は常に変化していて、その基準も自分が判断しているだけだということを忘れてはいけません。

 

 再び英語で考えてみようと思います。以前の私は英語が全くわからず、Japanと自分の名前くらいしか自信を持って答えられませんでした。でも、英語がわからないながらオーストラリアでの生活を続けているうちに、私の場合は耳から英語に慣れてきました。最初は、ただの雑音だった音の塊が、意味はわからなくても文章の切れ目がわかるようになりました。そしてさらに時間が経つと単語や熟語のような塊がわかるようになってきました。つまり、私の感覚では相手の言っていることが「だいたい」わかっているような気になれたのです。何もわからなかった頃の私からしたら、、相手の言っていることは「だいたい」でもわかっている状態は、「英語ができる人」の部類に入っていたと思いますが、私自身「英語ができている」という実感はありませんでした。なぜなら、「だいたい」わかっているだけで、完全にわかっている自信がなかったからです。

 

 そして、今の私はやはり完璧ではないまでも、以前よりは相手の言っていることはわかるし、自分の伝えたいこともそれなりに伝えられるようになってきました。全くできない人からしたら英語がペラペラに見えることもあるようですが、私本人としては、ネイティブやバイリンガルの人と比べてしまえばペラペラには程遠いなと思います。でも、他の人が全く理解できていない部分を理解できることもあるので、やっぱり「英語ができる」と自分で自信を持って言ってもいいんだろうと思っているし、一方ではまだまだ「できる」レベルに達していないから、もっとできるようになりたいとも思っています。

 

 つまり、「できる」「できない」はその時の自分のイメージは、自分の状態によって常に変化するものであるけれど、「できる」レベル自体も自分とともに進化していくものだということがわかります。そして、他の人からは「できている」レベルであっても、自分にとってはいつまでたっても「できない」と思うこともあるし、自分は「てきている」と思っていても、他の人からしたら「できていない」ことがあるということです。でも、周りの人がなんと言おうと、「できる」「できない」の判断は最終的に自分が下しているということがわかります。

 

 自分は「できているから」とできている方ばかりを見て、「できる」を磨くことを怠れば、いずれしっぺ返しを食らうこともあるでしょう。反対に「できない」ばかりに目を向けて「自分はダメだ。」と追い込み、落ち込んでばかりいては、せっかくのチャンスを見逃してしまうかもしれないのです。

 

 車の運転で、地元しか運転していなかったのに、あるきっかけで地元以外の場所を運転したら、意外と普通に運転できてて、それ以来車で出かけるのが楽しくなったなど、自分には無理、できないと思っていたようなことも、やってみたらあっさりとできてしまうこともたくさんあるのです。

 

 ということは、「できない」という自分自身の思い込みを崩していくことは「できる」へのヒントの宝庫であり、先へ進むための道しるべとなることなのだと思います。自分は「できない」と思うのなら、なぜ「できない」のか、何と比較して「できない」と思うのかを考え、今現在の「できない」自分がどんな状態の自分なのかを冷静に分析することが大切です。そして反対にいる「できる」自分はどんな自分なのかも考え続けなければいけません。そして、過去を分析し、将来を考えてみると、確実に前に進んでいる自分を実感することもできます。すると、どんなに長く苦しみ、悩んでいても、物事が解決する時や、前に進む時、ひらめく時は一瞬の出来事だということに気づけるでしょう。

 

 そう考えると、即効性があるように見えるようなことは、実は地道な努力の積み重ねによって起こる一瞬の出来事を切り取っただけなのではないかということなのではないでしょうか。ということは、物事の経過に即効性だけを求めるのはあまりにも都合が良すぎるということなのでしょう。