自分語で能力開発

自分語研究家Miki執筆用ブログ

一緒だという安心感

 検索ワード一つ入力すれば、欲しい情報のほとんどをを手に入れられる今、自分で物事を考えるということをしなくなっているのではないのでしょうか。インターネットを中心に、買い物をするにしても旅行に行くにしても、食事をする場所を選ぶにしても、口コミをチェックする。そのほかにもSNSでのいいねの数、星の数も情報を選ぶ際の判断基準になっている人は多いでしょう。

 

 ただ、こういった他人の意見、評価を気にするということは今に始まった事ではありません。今はインターネットが当たり前だから、個人の「口コミ」を簡単に見ることができますが、以前はテレビやラジオの「マスコミ」が、圧倒的力で人々に影響を与えていました。今でも以前ほどの影響力はないにしても「テレビでやっていたから。」「芸能人の誰々が紹介していた。」となれば、紹介された物、場所、人などはそれだけでブランド力が上がってしまいます。

 

 口コミ、マスコミが100%悪いと言っているわけではありません。私も通販で買い物するときなどは、星の数はついチェックしてしまいます。それに口コミのコミも、マスコミのコミもどちらも同じコミュニケーションの意味。ということは口コミもマスコミも色々な意味でコミュニケーションツールの一つとして考えることもできます。でも、私の周りでも、何かを選ぶ時にふたこと目には「口コミは?」の一言。他の話題になっても「口コミは?」あまりも信じすぎていないでしょうか?自分の感覚、感情、勘、言葉で物事を選ぶことをしなくていいのでしょうか?

 

 口コミや人からの情報を信じて行動した時にうまくいかなかった場合、人のせいにできてしまうという便利さはあります。でも自分で考えて選んだからこそ、失敗しても納得できます。失敗したときに人のせいにするか、自分でやった結果だからと思えるか、この辺りにも能力を発揮し、好きなことをしながら生きて行くための重要ななカラクリがあるのだと思うのです。

 

 そもそもなぜ人々はこんなにも人の意見、評価を気にしてしまうのでしょうか。確かに他の人と一緒であるということで安心感を得るられます。子どもであれば「大人と一緒がいい。」「友達とお揃いのものがいい。」家族の中では同じ口癖やしぐさがあったり、他人でもずっと一緒にいるとお互いに似てくる部分が出てきます。「誰かと同じだと安心感がある。」人間なんてそんなものです。だからと言って、本当は自分はどうなんだろう?というところをに目を向けず、むしろ、本当は背を向けて、「誰々がそう言っていたから。」と物事を決め続けて本当に自分の望んだものは手に入れられるのでしょうか。

 

 自分の感覚、感情、勘、言葉である自分語を奪ったのは何もインターネットやマスコミだけではありません。「まわりと同じ方がいい。」「まわりに合わせよう。」「みんな一緒がいい。」という、日本人が特に強く持っている風潮があります。「一緒である」ことが悪いのではありません。ただそれが行きすぎてしまい、自分の感覚、勘、言葉、心の声を消してまで他人に合わせてしまうから、ますます自分語の存在を封じ込めてしまうのではないでしょうか。つまり、自分語とは誰かに奪われたものでもあり、自分で閉じ込めているのではないかと思うのです。

 

 例えば私の場合、「夫婦だからってずっと一緒に過ごす必要はない。」と思っていて、むしろ「ずっと一緒にいる方が気持ちが悪い。」とすら思っています。ほとんどの場合、「えっ?」という顔をされてしまいます。でも、私が一般的な「夫婦」というあり方に沿って、旦那の休みの日に合わせ、一緒に過ごす。たったこれだけのことを優先しただけで、私は息苦しさを感じ、その環境から逃げ出してしまいたくなるでしょう。さらに、私たち夫婦はもともと同じ職場で働いていたので、お互いに敬語を使うのも普通です。これも周りからしたら異様な光景に見えるそうですが、自分たちにとっては当たり前。世間から何を言われようと、夫婦だからといってずっと一緒にいたくもないし、敬語も使います。ちょっと極端な例だったかもしれないけれど、世間の当たり前は自分の当たり前ではないし、自分の当たり前は世間の当たり前とも違うということがわかります。

 

 自分語を取り戻す鍵は意外と身近なところに隠されているのです。そして大切なことは、自分が当たり前だと思っていることを、あえて他人に話してみる。すると、当たり前が当たり前でなかったことに気づき、そこから世界が広がり、本当に自分が好きなものにも出会えたりするのです。

 

 もしあなたが「好きなことがわからない」「やりたいことがわからない」というのなら、それは自分語を見失っている、自分語を奪われてしまっている可能性が非常に高いでしょう。人に勧められたらその気になるけれど、自分から進んで何かをしたいと思わない、思えない。だから自分がどうしたらいいのかわからなくなり、自分探しの旅に出てみたり、自己啓発の本を読みあさったり、セミナーに参加しまくるということはないでしょうか。

 

 あなた自身が、あなたの言葉で感じて、表現できる、つまり、自分語を使えるようにならない限り、何冊本を読んでも、どんなに高いセミナーに参加しても、現状を変えることはできないでしょう。逆に、自分の好きなことをして、好きなように生きている人は、しっかりとした自分語を持っていて、自分語を表現して生きています。成功しているように見える人と、そうではない、迷子になっているような人の大きな違いは、自分語が使えているのかいないのか、そこにあると考えます。

 

 では、どうすれば自分語を使い、自分語を表現することができるようになるのか。そのためにはただ闇雲に手当たり次第自分が好きなことかもしれないことをすればいいのでしょうか。基本的にはその通りかもしれません。そして、中にはそれで自分語を取り戻すことに成功して、あっという間に自分語を自由に表現でき、自由を謳歌する生活ができるようになるかもしれません。つまり、自分の好きなことだったらいくらでもできてしまうということなのです。

 

 でも実際には好きなことだと思ってやってみたけれど、なぜだか違和感が残ることがあります。それの理由は、「人に言われた。」「人にいいなって言ってもらえそう」なことを、「好きなことと勘違い」している場合があるからです。だから、いつまでたってもなかなか自分の本当の好きに出会えないと思っている人がいるのです。「好きなことを好きなだけやろう!」と口ではいうけれど、実は簡単そうで多くの人が難しく感じるのはやはり自分の感覚、感情、勘、言葉である自分語の感覚が鈍っているからなのです。

 

 さらに、大人たちが自分語の感覚を忘れた状態でいれば、子どもたちも私たち大人と同じ道を辿ることになってしまうでしょう。大人たちの一つ一つの行動、言動が世界を作って動かしているのだとしたら、実際に子どもがいる、いないということは関係なく、大人全員の問題ということになります。そして、自分語を忘れた大人たちは無意識のうちに、子どもたちの自分語を奪い、封じ込めさせるように仕向けていくことになるでしょう。たとえ口では「子どもたちに好きなことを」と豪語したところで、大人が自分語で語り、表現することができなければ、本当の意味で子どもたちが好きなことをできる世の中にはならないでしょう。なぜなら、大人たちができないことを子どもたちができるとは考えにくいからです。

 

  そんな状況でも、「子は勝手に育つ」という言葉の通りなのか、大人の考える、大人が勝手に想像する理想的な子どもの将来とは裏腹に、「将来の夢はYouTuber。」そんな子どもが増えているようです。私が子どもの時代にはインターネットすらなかった時代には考えられなかったことです。でも今は、1人1メディアの時代になり、その気になれば自分の世界を世界中へ発信することができます。終身雇用はもはや安定を保証されたものではなく、学歴ももはや自慢できる経歴ではなくなってきています。個人個人の力が頼りになるこれからの将来。いつまでも「誰かと一緒で安心。」とばかりは言っていられなくなるのです。人間の最低限の欲求である「一緒で安心」の部分はキープしながらも、自分だけの自分語の信念を持って、表現できるようになっていなければいけない時代になっています。

 

 今こそ大人たちは、子どもたちのためにも、自分語を取り戻し、磨き、表現していく必要があるでしょう。そして、本当に自分の言葉で決断し、行動できるようになるべきだと考えます。そうすることで、気づかなかった能力を発見することもできるし、苦手だ、嫌いだと思っていたことも案外と楽しめて新しい世界が見えてきたりすることもあります。つまり、やらされているからやりたくなくなるし、嫌いになってしまうのです。そして、一度嫌いだ、嫌だというスイッチが入ってしまえば、好きへのスイッチへ変えることは困難です。しかも、一度は好きだったものが嫌い、苦手になってしまったのなら、困難を極めると思います。それでも、自分の意思で、自分の考えで、自分の感情が動いた時、本当に嫌いで、本当に苦手で、できれば近寄りたくない!と思っていたことも意外と楽しめてしまうこともあるのです。それだけ自分語には誰かにやらされているのとは違う、好きや得意を引き出す強力なパワーを持っているという確信があります。

 

 自分語を奪った社会、閉じ込めた自分、自分の考える、見えている外側の世界と内側の世界。その全てが複雑に絡み合っていて、本当の自分語はどこにあるのか、どんなものなのか紐解いていみる。そして、自分語を奪う、閉じ込める理由、敵を知る。そうすることができれば、次に自分語を奪われる危機が訪れたとしても対処することができるのではないでしょうか。そして、自分の自分語を取り戻し、極めることができれば、大人、子どもを問わず、他人の自分語を奪い、封じ込めることをしなくなるでしょう。

 

 自分語は、すべての人間に平等に与えられた、いわば標準装備のようなものです。いつ、どの段階で自分語という元々持って生まれた感覚、感情、勘、言葉、を封じ込めてしまったのか、様々な角度から検証していきたいと思います。