自分語で能力開発

自分語研究家Miki執筆用ブログ

学校は自分語を封じ込める専門機関

 自分語を奪い、封じ込めたのは誰なのかと考えると、外すことができないのは学校の存在ではないでしょうか。学校や教育に対して様々な批判や、論争、主張があります。私自身、不登校を経験していることから、学校教育に対して不満もあったし、今でも日本の学校教育は素晴らしいと言う気にもなれません。

 

 現在の学校教育では、目上の人(先生)の言うことを聞き、その通りに行動できる人を作り上げるための養成所のようなもので、「生徒の個性を」などと言っている割に、ちょっとでも違うとことをすれば、その出る杭は打たれてしまっていないでしょうか。せっかく生徒が自分の意思で自分語を表現したり、物事を追求しようとしても、それらが先生側にとって都合が悪ことであれば、簡単にねじ伏せられてしまっているのではないでしょうか。ではなぜ、学校は個性を大切にと言いながら、個性でもある自分語を封じ込めてしまうのでしょうか。

 

 最近は小学校の入学前の説明会で「ひらがなの読み書きはできるようにしておいてください。」なんて言う小学校もあるようです。私には、学校が先生たちが「やりやすいようにしたいだけ」の主張に思えます。だって、入学前にひらがなの読み書きを覚えてきてもらえたら、自分たち教師はひらがなを教える手間がなくなるということです。

 

 確かに、昔よりも早期教育は盛んだし、絵本も簡単に手に入るし、知育おもちゃもたくさんあるので、早くからひらがなに触れる機会があるのも事実です。実際に、ひらがなや数字の文字が好きな子は3歳前に読むことなどができてしまう子もいるようです。でもその一方で、ひらがなや数字に興味がなければ全く覚えようとしない子もいるのです。そもそも、小学校に上がるまで読み書きができない子がいても不思議ではなく、わざわざ年齢でできるできないの能力を区切る必要はないはずです。

 

 できる子もいればできない子もいる。学校にはその現実を受け入れる余裕がないのでしょうか。実際に地域差はありますが、一人の先生が40人近くの生徒を一人で受け持ち、さらに一人一人の生徒に対応するのは大変ですし、先生となる人の資質の問題もあります。そうだとしても、私立の進学校で、お受験をして入学するような小学校ならともかく、公立の小学校でも「入学までにひらがなの読み書きをできるように。」なんて言ってしまうのは、やはり違和感を感じます。

 

 もし仮に小学校入学までにひらがなの読み書きができなかったとしたら、その生徒はその時点で劣等生なのでしょうか。文字に対して興味はないだけかもしれないし、文字が苦手なのかもしれません。でも、スポーツや芸術が好きかもしれないし、計算をやらせてみたら得意かもしれないし、好きな物語に出会えれば、それまで読み書きができなくても、いきなり読書に目覚めて文字を覚えるる可能性だってあるのです。

 

 学校では一つのことができなければ、他のこともできないと思わせるような教え方を率先して行っているように思えます。本来なら、学ぶことの楽しさや、共に学ぶことで子どもの可能性や世界を広げるきっかけを作るべき学校であるはずなのに、〇〇ができるという基準に当てはめようとして、できない子には劣等生のレッテルを張るのが目的になってしまってはいないでしょうか。

 

 できる、できないの基準を決められてしまっている原因の一つがテストです。生徒がどのくらい理解しているのかを生徒はもちろん、先生親も知るためのものなのかもしれません。しかし、結局はテストで点をつけることであなたは〇〇が苦手です。という意識を植え付けているだけのように思えます。もし、できると言うことにフォーカスするのであれば、なぜ満点から減点してしまうのでしょう。減点されるからダメなんだという意識が高まってしまいます。もし、テストが加点方式なら、できたと言う喜びとともに、学びたいという意識が高まっていくのではないでしょうか。

 

 加点の基準がわからない。それでは先生によって差が出てしまう。確かにそういう問題は出てくるかもしれません。なぜなら先生が減点方式での教育しか受けていなく、その中である程度の成績を残せた人しか先生になれないからです。そもそも、教員採用の基準がおかしいということに気づき、改革しなければいけない時期なのではないでしょうか。今までのように、先生になるためには大学を出て、教養課程を修了していなければいけない必要はないと思います。

 

 例えばこれから先生になれるのは、学歴に関係なくある分野に優れているとか、やたらと人望が厚いとか、新卒では先生になれなくて、社会経験が必要だとかでもいいと思います。とにかく、色々と経験の少ない学生が、ただ試験に合格ただけで先生という立場になれてしまうののです。試験に合格できるというのも立派な能力ですが、それは単純に学校や教育委員会が洗脳しやすい人を採用しているように思えます。そして、その洗脳された先生と呼ばれる人たちが、自分と同じようなことができる生徒を育てようとしているのが現在の学校教育なのではないでしょうか。それでは子どもたちのそれぞれの能力も個性も伸びることはないでしょう。

 

 親から離れた子どもたちは、先生の影響を多大に受けます。私は、全国各地から北海道を訪れる修学旅行生を受け入れる仕事をしていた経験がありますが、生徒の印象、態度などは見事に先生と比例します。そして、その印象の良し悪しが偏差値の数字にも比例してしまうという現実がありました。どういうことかというと、偏差値の高い、有名進学校の場合、先生も堂々としているので、生徒も堂々としています。しっかり人の目を見て話を聞き、姿勢も正しい生徒が多かったのです。しかし、偏差値の低いと言われる学校の場合、まず先生が、「うちの生徒は話を聞かないから。」または「ダメだから。」となんでも頭ごなしに大声を出したりすることも多く、生徒たちもダラダラと動き、下を向きながら話を聞いています。先生が大声を出すまで動かない。なんてことも珍しくありませんでした。

 

 このような話をすると、偏差値の制度に賛成しているように思われるかもしれないのですが、反対です。偏差値なんて変な数字があるから、「うちの学校はいい。」「うちの学校は悪い。」先生自身が決め付けることになってしまっています。そして、先生自身がそう思って行動するから、「いい学校」の生徒はより良く行動できるし、「悪い学校」の生徒はより悪く行動してしまい、世間の印象もそのようになってしまうのではないかと思うのです。偏差値なんてものがなければ、最初から「うちはダメだから…」なんて思う必要はなくなり、つまらないレッテルを自ら張る必要がなくなるのではないでしょうか。

 

 では、問題が多いと思われる既存の学校に、最初から子どもを通わせなければいいのでしょうか。学校に子どもが通わなければ、自分語を封じ込められることなく子どもは自分の能力を発揮できるのでしょうか。確かに、自分語を封じ込められるリスクは減るように思えますが、今の既存の学校のあり方はともかくとして、学校というスタイルというか、他の人と一緒に学ぶための「集団」は必要ではないかと考えます。

 

 なぜなら、家庭でできる教育には限界があるからです。たとえ経済的に余裕があろうと、子どもの追求したい!という心に応えてあげることは家庭だけでは限界があります。そして、子どもには他人からの刺激というのは必要不可欠だと思うからです。例えば、理科が好きな子どもだった場合、図鑑や参考書、実験道具などを全て揃えられたとしても、結局その世界でしか学ぶことができません。もし、学校で他の生徒たちと一緒に実験ができたなら、成功や失敗など、他の実験結果を知ることだって可能です。つまり、比較し、検証することがより簡単にできるようになります。他にも、自宅ではピアノは置けないけれど学校に行けばピアノが弾ける。体育館があるからバスケットボールやバレーボールができるなど、多額の費用を払わなくても、学校だからできることということもたくさんあるように思うからです。

 

 それでは、どうしたら今の子どもたちはどうしたらいいのでしょう?学校にどうしても通いたくない。というお子さんの場合は当然、学校に行かないという選択もあります。一方で、友達もいるし、学校が楽しい。というお子さんもいるでしょう。その場合は、当然学校に通うという選択をすることになると思います。大切なのは、大人の私たちが、学校は自分語を封じ込め、学校側のやりやすいように、もっと言えば、社会に出て扱いやすい人間になるように教育している機関だということを忘れないことです。つまり、テストや偏差値という基準に当てはめようと、その結果を重視してしまえば、その時点で子どもたちの自分語を封じ込める学校の手助けをしてしまうことになります。

 

 大切なことは、実際に子どもがいなくても、学校に通う年齢の子どもがいなくても、大人なら誰でも、将来の子どもたちにできることはたくさんあると自覚することです。まず必要なことは、大人たちが自分語を封じ込められた呪文はなんだったのか思い出し、その事実を認めることです。苦手意識や自分はダメだな…と思うきっかけや、本当はもっとやりたかった、追求したかったことが見つかると思います。そして、辛かったなら辛かったね。悔しかったね。楽しかったね。もっとやりたかったね。などとその時の感情を認めてあげたらいいのだと思います。

 

 そして、これからは、自分自身の生活や仕事、子育てで減点方式で物事の良し悪しを判断したり、評価しない努力を続けていくことが必要です。今まで私たち大人は減点することが完全に身についてしまっています。ですので、いきなり加点しよう!と言われてもピンとこないし、違和感を感じるかもしれません。でも、加点するポイントは探せば色々と見つかるものです。

 

 例えば、英語が嫌いだからダメ。で終わらせずに、英語は苦手で嫌いだと思っていたけれど、実はカタカナの言葉はよく使っているから本当は英語そのものが嫌いなわけじゃないのかも。ということだったり、他には運動は苦手だけど、天気のいい日に長い距離を歩いたり、自転車に乗るのは楽しいな。など、嫌い。苦手。で終わらせずに嫌いだけど…。苦手だけど…。の…になるプラスアルファを探してみてはいかがでしょうか。きっと新しい発見ができると思います。