自分語で能力開発

自分語研究家Miki執筆用ブログ

親は呪いをかける魔術士なのか

ここからは、本来自分が持つ感覚、感情、勘、言葉である自分語について様々な角度から考察していきたいと思います。もしあなたが好きなことがわからない、やりたいことがわからない、やるべきことがわからないのだとしたら、自分語を見失っている可能性が非常に高いということは以前にもお話ししました。ではなぜ、自分語を見失っしまったのでしょうか?見失っているということは、誰かに奪われてしまったのか、それとも自分で隠してしまったのでしょうか。自分語を失ってしまった原因を探り、原因を知り、自分語を取り戻す糸口を見つていきましょう。

 

 まず最初に、自分語を奪われたとしたら、真っ先に浮かぶのは親や学校が想像できるのではないでしょうか?そこで、「犯人は親と学校だ!」と決めて、文句と悪口を言ったり、批判をすれば自分語は戻ってくるのでしょうか?確かに、教育に関しては議論するべき問題も多く、義務教育に対しての反対意見を述べる著名人も多いですし、私も賛成できる部分が多くあります。ただ、議論しているだけでは先に進めません。将来の教育を変えていこうという姿勢はとても大切ですが、それ以前に、自分自身を振り返り、大人こそが自分語を取り戻さなければ、表面的に教育を変えたところで根っこの部分が変わることはないでしょう。それだけ自分しか持っていない自分語というのは大切なものなのです。

 

 では、今回は親と自分語の関係について考えてみたいと思います。たまたまインターネットで他の人のブログを見ている時に「親の呪い」というワードを見つけました。そしてその時「そっか、自分が苦しいのは自分のせいじゃなくて、親のせいなんだ。」と思った私は、なんだか救われた気分になってスッキリした気分になりました。でも、数分もしないうちに大きな不安が私を襲ってきたのです。それは、私が今「親」であり、「呪い」をかける立場にいるということに気づいたからです。親の呪いとはどういうことなのでしょうか。「あなたは〇〇だから」と繰り返し言われることや、親が繰り返し発した言動や、してきた行動が呪文となり、子どもの行動や考えを制限してしまうということでしょうか。確かに、親が子どもに与える影響は絶大で、話し方、口癖はもちろん、食べ方なや行動パターンも似てきます。なので、「なんであなたは〇〇ができないの?」なんて親が言っていたとしたら、きっと言っている親ができていないということなのでしょう。

 

 私の場合、兄弟でも長女、いとこの中でも年長だったので「お姉ちゃんなんだから」その言葉を何度もかけられて、「私はしっかりしていなければいけない。」そんな風に思って育ちました。まさに親にかけられた呪いの代表的ワードですね。おかげで私は、人に甘えるということが苦手で、どう人を頼ったらいいのかイマイチわかりません。上に兄弟のいる、特にお兄ちゃんがいる女の子の甘え上手っぷりったら惚れ惚れしてしまい、思春期、青春時代の私にとっては憧れでしかありませんでした。でも、後で気づいたのですが、私がその甘え上手の女の子になりたいかというと別にそういうわけでもないんです。羨ましいな、と思いつつ、甘え上手になりたいのかというと不思議とそうは思わないのです。なぜなら、自分が誰かに甘えている姿を想像しただけで嫌気と寒気が同時にやってきてしまいます。誰にも頼らず生きているとも、生きていけるとも思いませんが、できないもはできないのです。ということは、自分が甘えたくないという考え方を持っている以上、甘えられなくて苦しい思いをしていても、単純に「親の呪い」のせいにすることができないのです。

 

 でも、本当に親が「呪い」を子どもにかけてしまうとしたら、なぜ「呪い」をかけてしまうのでしょうか。私も子育てをするようになって気づいたのですが、親がすることのほとんどは「子どものため」というのが大義名分です。もちろん、自分の名誉や理想の為に子どもを教育する人もいるかもしれないし、気づけば自分もそうなる可能性もあります。そして、人生楽あれば苦もあるというのはわかっているけれど、親は愛する我が子に、将来苦労も辛い思いもして欲しくない、なるべくなら減らしてあげたいと願うものです。実際は、そう考える時点で子どもにとっては大きなお世話なのかもしれません。子は勝手に育つとか、かわいい子には旅をさせろとか、ライオンのお母さんは子どもを崖の上から落として…なんて話もよく聞くので、なんでもやってあげてはいけないという事だってわかっているし、甘やかすつもりもないのです。でも、実際は自分では厳しくしているつもりでも、周りから見たら甘やかしているかもしれないし、手や口を出しすぎているのかもしれません。そして、いくら親自身が「子どものため」と思って何かをしてあげている、与えているつもりでも、実は奪っている状態なのかもしれないのです。

 

 与えているつもりで奪っているとはどういうことなのでしょうか?想像しやすいのは子どもの頃の習い事ではないでしょうか。昔から習い事はありますが、今では小さい子を連れても外出しやすくなったことや、大手企業も進出しているので、英会話や水泳、リトミッックなどの子どもの早期教育も盛んに行われています。子どもがやりたい!と思って始める習い事もあるとは思いますが、赤ちゃんのうちから始める早期教育の場合、子どもに選択権はありません。子どもが自分の意思で話し、決断できないので、親が決めて、親が進めていくことになります。早期教育にも賛否あって、特に英語の早期教育については、日本語を覚えてからで十分間に合うという意見や、脳の仕組みから3歳までにたくさんの英語を聞かせたほうがいいという意見など、それぞれの立場や経験によって、考え方が異なります。すると、どの意見が正しいのかわからないということになってしまうのですが、結局正しい方法ななんて存在しないし、やってみなければわからないというのが現実です。

 

 実際に私は、自分の海外生活の経験と、将来は英語は必須という考えから、息子には0歳の時から英語教育を始めています。今は息子にとって英語のある生活は普通のことですし、テレビから流れてくる言語は英語だと思っています。でも、もう少し成長して友達とテレビの話になれば、全く話が合わないという事実に気づくことになるでしょう。その時の私の反応の仕方やその後の対応の仕方次第で私は息子に英語環境を与えているつもりで、英語が好きになる可能性を奪ってしまうことになるのだろうと思っています。つまり、誰のための習い事かということを常に意識していなければいけないということです。子どもが興味を持って取り組むことができれば、その習い事は学びの場を提供していることになるとになります。そして、親が必要だと思ってただやらせているのであれば、それは例えば英語であれば、英語を好きになる機会を奪っているということになるのだと考えています。

 

 では、自分がやっていた習い事についてはどうでしょうか?あなたも子どもの頃に何かしらの習い事をしていたのではないでしょうか?その習い事は大人になってから役に立っていますか?もしかすると、ピアノを習っていてそのまま先生になったという人もいるでしょうし、英会話が得意で世界を飛び回っているという人もいるかもしれませんが、習い事が現在の仕事と結びついている人は少なくて、昔はできたけれど今はちっともできない。なんてことがあっても不思議ではないと思います。では、そう考えると習い事というのは親の自己満足であって、子どもにとっては貴重な時間を奪われる無駄なものなのでしょうか?羽交い締めにされて、無理やり行かされていたとか、本当は好きなことだったけど、先生が怖くて嫌いになってしまった。そんな習い事もあるかもしれません。でも、多くの習い事は、全く無駄ではなかったと私は思います。例えば、そろばんはもう今の時代に使っている人は少ないですが、暗算が得意になりました。ピアノであれば、上手にはならなかったけれど、発表会で大人数の前で演奏することで度胸がついたように思います。つまり、何かを習う時に、大きな結果を出すことだけが目的であれば多くのことは失敗に終わりますが、経験値を増やすという目的であれば、大きな結果が出なくてもいいのではないのでしょうか。なので、どんな習い事でも、習い事そのものが悪いことではないように思えます。

 

 それでも、親や習い事のせいで嫌いになってしまったものや、親にかけられた言葉で自分はこういう人間だからと思ってしまって、どうにもこうにも苦手なものがあるかもしれません。その場合、その苦手なことや嫌いなことは克服するべき重大なことなのでしょうか?前にも述べた通り、私は将来、今よりももっと英語が必要な世の中になると思っているし、英語はできないよりできた方が得だと思っています。同じように考える人も多くて、早くから英語教育に取り組んでいる家庭も増えているようです。その一方で、自分は英語が苦手だから、自分の子どもに英語なんて教えられない。だから英語教育はしない。という人もたくさん見てきました。私は、親の英語の苦手意識を克服することができれば、英語を学べる子どもが増えて、英語の苦手意識が減る子どもも増えるだろうと考えていました。でも、やはり大人の身について染み付いてこびりついてしまった英語の苦手意識を払拭することは困難を極めます。なんとかして親の方を説得できないか、色々な方法を考えていて、今でも諦めきれずにいるのですが、親が英語が苦手なままでもいいかなと思うようにもなりました。なぜなら、親の得意はもちろん、苦手も必ず子どもに伝染するとは限らないからです。どんなに英語が苦手で嫌いな親でも、必要を感じれば、もしくは子ども自身が学びたいと訴えれば、英語をやらせてあげようというのが親心ではないかと思ったからです。

 

 つまり、嫌いになってしまった。苦手になってしまったものがあるのは仕方がないのです。きっとどんな選択をしようと、何かは好きで、何かは嫌いであってもおかしくはないのです。100%全てが得意で苦手なものはないなんて人はいないのではないでしょうか。自分に足りない何かを持っている誰かを羨んで親のせいにしたくなることもあるでしょう。実際に、本当に親の言ってきた言葉のせいで、自分という人格を作られたかもしれません。でも、自分が変わりたい、という明確な自分語を持つことができれば、人格すら変えることは可能ですし、苦手を得意に変えることだって可能だと思っています。

 

 なので、まず、現在の自分と持っている自分語を知るために、まずは現在の自分を作っていると思う親に言われた一言は何なのか。好きなものは何で、なぜ好きなのか、そして嫌いなものは何で、なぜ嫌いなのか、ということに目を向け見てはいかがでしょうか。そうするだけで自分が本当は何がしたくて、何をしたくないのかという現在の自分語が見えてくるはずだと思っています。